いじめと人権 ――いじめ裁判例を読む

                                                  采女 博文

 「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると右の方に並んで居た友だちがからかい半分に僕を押して来る、左へよけようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直に泣き出すのである。そんな機会はなくても二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴があった。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいぢめるような強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かった。これはどっちがえらいのであろう。(正岡子規『墨汁一滴』)」


 一 はじめに
  言葉の広い意味での「いじめ現象」は、なにも子ども社会に限りません。むしろ大人社会にこそ蔓延しています。たとえば水俣・出水地区で発生しました水俣病に対する社会の対応もその典型です。今ようやく政府も和解へ向けて重い腰をあげていますけれども、水俣病第一次訴訟第一審判決(熊本地判昭和四八(一九七三)年三月二〇日判例時報六九六号一五頁)から数えましてもすでに長い月日が経っています。水俣病の医学研究者が現代日本社会の「人を人と思わない状況」を指摘してこう言っています。
  「チッソはみずからの企業の利益のために周辺に住む漁民をはじめ多くの住民の生命や健康に対する配慮を行なわなかった。もし一遍の思いやりとやさしさがあって、彼らの生活の場である海を汚すことへの心の痛みが少しでもあったなら水俣病の発生は防止できたのであった。かりに、防止できなかったとしても、人間に対する思いやりがあったら被害をかくも拡大させずにすんだ。一部の学者を動員し世間を惑わし、原因をうやむやにし、・・・・・・行政もまた共犯者である。企業の生産活動への保護はしたものの、周辺に住む住民の生命、財産に対する保護への配慮はなかった。海を汚染しないためのさまざまな法律があったにもかかわらず、何もしてこなかった(原田正純『水俣病にまなぶ旅』一頁、日本評論社、一九八五年)」。
  その他、日本社会におけるいじめ現象は、大企業による下請企業いじめ、職場における少数組合員・女性差別などいくらでも例をあげることができます。 子ども社会におけるいじめをマスコミはこう表現しています。「『いじめ』は標的にひとりを選び出し、絶対に勝ち目のない状況に追い込んで屈服させていく。いじめる側は多数だから『ひとり』に反撃される危険性はない。しかも、いじめている側は集団に埋没して加害者意識すら稀薄だ。だから罪におののきながらやむなく犯す貧しさゆえの盗みなどに比べると、人間性の点でおぞましさこの上ないといえる(毎日新聞社社会部編『総力取材「いじめ」事件』はしがき、毎日新聞社、一九九五年)」。 その通りだと思いますが、ただ「人間性の点でのおぞましさ」はむしろおとな社会そのものに投げ返すべきでしょう。おとな社会の論理と倫理がとうとう子どもの世界まで覆いつくしてしまった、言い換えると、子どもの世界がもはや大人社会から隔離された「聖域」ではなくなったと感じるからこそ、一層私たちはいらだつのではないか。今、学校の門の外に出ればともかく、学校の中だけは貧富の差別もなく自由で平等な精神が息づいているという幻想がずたずたに打ち砕かれています。
  今、いじめ問題の解決へ向けて様々な分野で、様々な視点から提言と取り組みがおこなわれています。たとえばまず、学校教育の場におけるいじめ問題を日本社会の構造のなかで生み出されている問題であると捉える立場があります。いじめ問題はどうしても加害者としての個々の学校・教師の問題性が日本社会の他の諸関連から切り離された形で浮かび上がりがちでありますから、この視点は重要です。この視点に立ちますと、日本社会の構造の転換によって問題の根本的な解決が可能になることになります(なお日本社会の詳細な分析に、渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』労働旬報社、一九九〇年、特に三七二頁などがあります)。また、これだけいじめ現象が社会のなかに蔓延していますと、やはり原罪論の視点も登場します。霊長類の研究者も、人類は集合性、親和性、やさしさ、思いやり、友情などという善の範疇に入る性質と疎外性、残虐性、搾取と収奪、権勢欲など悪の範疇に入る性質とを合わせもっていると述べています(参照、河合雅雄『森林がサルを生んだ』朝日文庫、一九九二年。この原罪論に近い視点での現場の教員による研究もあります。礫川全次・田村勇『いじめと民俗学』批評社、一九九四年)。原罪論をとりますと、私たちはいじめ現象とも果てしなく、ねばり強く付きあっていかなければならないことになりそうです。
  現在、いじめ問題解決のために、諸分野から様々な努力・提言がなされ始めています。今日は私たちの市民生活を規律しています法のレヴェルでいじめ問題を考えてみたいと思います。民法学からなしうる寄与は何かを裁判例を読みながら考えることにします。

 二 いじめ裁判例を読む
 いじめという言葉は法律用語というわけではありません。その定義をめぐって議論がありますし、いじめ事件数の各種全国統計での定義も少しずつ違います。文部省の定義は「@自分より弱い者に対して、一方的に、A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、B相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする」となっています(総務庁青少年対策本部編『平成六年版青少年白書』大蔵省印刷局、二一六頁参照)。警察庁の定義は、「単独または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃又は言動による脅し、いやがらせ、無視等の心理的圧迫を反復継続して加えることにより、苦痛を与えること(ただし、番長グループや暴走族同士による対立抗争を除く」となっています(警察庁編『平成六年版警察白書』大蔵省印刷局、一七九頁以下参照)。ここではとりあえず、いじめ行為を学校教育の場での児童・生徒の生命・身体・健康・自由への児童・生徒による加害行為と捉えておくことにします。
 この約一〇年来、悲惨ないじめ事件が全国的に頻発しています。鹿児島県も例外ではありません。しかし被害者の家族が裁判に踏み切ることの困難性からだと思いますが、裁判例はあまり多くはありません。以下では、主につぎの九件の裁判例を素材として扱います。単純ないたずら型の事故やいわば突発的な事故と考えられる裁判例は除いています。
 @定時制農業高校いじめ自殺事件・新潟地判昭和五六(一九八一)年一〇月二七日判例時報一〇三一号一五八頁(棄却:確定)
 A吉田小学校いじめ負傷事件・長野地判昭和六〇(一九八五)年二月二五日判例タイムズ五五四号二六二頁(一部認容)
 B三室小学校いじめ負傷事件・浦和地判昭和六〇(一九八五)年四月二二日判例時報一一五九号六八頁(一部認容:控訴)
 C第三小学校いじめ小児神経症発症事件・東京地判平成二(一九九〇)年四月一七日判例タイムズ七五三号一〇五頁(棄却:確定)
  D小川中学校いじめ自殺事件・福島地(いわき支部)判平成二(一九九〇)年一二月二六日判例時報一三七二号二七頁(一部認容:確定)
 E中野富士見中学校いじめ自殺事件・東京地判平成三(一九九一)年三月二七日判例時報一三七八号二六頁(一部認容:控訴)
  F羽村第一中学校いじめ登校拒否事件・東京地(八王子支部)判平成三(一九九一)年九月二六日判例時報一四〇〇号三九頁(棄却:確定)
  G中野富士見中学校いじめ自殺事件控訴審判決・東京高判平成六(一九九四)年五月二〇日判例時報一四九五号四二頁(一部変更:確定)
  H鴨方中学校いじめ自殺事件・岡山地判平成六(一九九四)年一一月二九日判例時報一五二九号一二五頁以下(請求棄却・確定)

【1】いじめ裁判例に現れる教師・学校像
  これまでの裁判例から汲み取らなければならない教訓がいくつかあるように思います。まず第一に、いじめ、とりわけ刑罰法令違反型いじめにおいては、これを許さないという学校側の断固たる姿勢が必要です。被害生徒が自殺するに至った事件のうち特に判決DEGでは、学校側の加害生徒に対する及び腰の姿勢が加害生徒を増長させてしまっています。
  判決Dは、教師らの指導についてこう述べています。「表面化した問題について形式的で、その場限りの一時的な注意指導を繰り返すのみで」、加害生徒が「言い訳をすると、これが不合理なものでもあってもそれ以上追及調査せず」、「問題の全体像を探り出し」加害生徒等を「全人格的に指導し抜本的な解決を図ろうとする姿勢及び行動は全く見られなかった」。この事件では、とくに自殺直前の教室あらし事件に対する教師らの対応が象徴的なものです。被害生徒は、教室あらし(金品窃盗)が加害生徒らの金銭強要に端を発していることを生活指導主事の教諭に告げているわけですが、それにもかかわらず被害生徒は単なる教室あらしとして校長から説諭を受けるだけに終わってしまっています。
  判決EGの事件は、「葬式ごっこ」に象徴的に現れていますが、教師ぐるみのいじめといってもいいでしょう。いじめの認識や「葬式ごっこ」についての評価は判決Eとその控訴審判決Gとでは分かれています。いじめの認識については判決Gがより深くなっています。
  判決Eは、「『使い走りをさせられることについても、彼は喜んでやっていたはずである。・・・・・・いやもっとはっきり言えば、そうすることが大切であり必要であり、自分とグループの人との関係を持つ上で重要だということを見抜き、それを自らに課し、役目を果たすことを自分に義務づけていたということである』とする見方も十分に成り立ち得る」と述べ、また教師らが葬式ごっこのような「生徒の悪ふざけに参加したことについては、教育実践論上は賛否両論がみられるけれども、いずれにしてもひとつのエピソードであるに過ぎない」と述べています。
  これに対して控訴審判決Gは、「使い走り等の使役は、その内容自体からして通常人であれば誰しもそのように使役されることに屈辱感及び嫌悪感など心理的苦痛を感じないことはありえない」し、「表面上迎合的態度で対応するということは、自らのプライドを一応維持することでもあり、また、拒否的態度を示した場合に予想されるより激しいいじめを回避するための精一杯の防衛的対応であった」としています。葬式ごっこについてもいじめの一環とみています。「いきなり学級の生徒らほとんど全員が参加したような形で行われる、そのような自分を死者になぞらえた行為に直面させられた当人の側からすれば、精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはない」。「色紙の寄せ書きに加わった教師らは、本件グループの問題行動が激化していてそれが校内の異常事態の主たる原因をなしており、一郎が本件グループ内で使い走り役等に使役されているのみならず、種々のいじめを受けていることを認識していたにもかかわらず、その軽率な行為によって集団的いじめに加担したに等しいものというべきであり、・・・・・・一郎にとって教師らが頼りになる存在ではないことを思い知らされた出来事であった」。
  第二に、学校教育から体罰を一掃すべきです。教師は暴力を容認しないという断固たる姿勢を示さなければなりません。
  裁判例のなかには教師がいじめ行為を誘発しているとみられる事例があります。判決Aです。転校後約四か月の小学校六年生の女子児童が、男子児童二人に振り回されて肋骨不全骨折等の障害を負った事件です。負傷事故そのものは偶発的なもののようですが、被害女児は転校直後に他の児童から殴る蹴るなどの暴行を受けています。このことを担任教諭は女児の訴えにより知っていたにもかかわらず、なんら適切な措置をとっていません。このような状況のなかで事件が起きています。またこの担当教諭は多数の生徒に往復びんたを加えていますが、裁判所はこれを次のように評価しています。これは教育的なものではなく、「自分の気に入った生徒に対しては親切で、そうでない生徒に対してはきつくあたっていたとも考えられる」。「教師のこのような態度(=びんた)は、生徒に対し、他人への思いやりを軽視し、ひいては多少の乱暴は大目に見られるとの意識を助長することになりかねない」。この事件では、担当教諭が学級に暴力容認の雰囲気を作り出し、いじめ行為を誘発ないし助長しているといっていいと思います。
  なお体罰について申しますと、体罰は学校教育法一一条によって明瞭に否定されています。また裁判所も繰り返し体罰を否定しています。裁判例に現れます教師による体罰の特徴はふたつあります。ひとつは体力のない小学生や女子生徒に向けられていることです。判決A(女性教諭、小学校六年生)。二つめに、比較的ささいな校則違反などが体罰の理由になっていることです。授業中の私語などの怠学(25歳男子教諭、高校三年生男子生徒)・最判昭和五二(一九七七)年一〇月二五日判例タイムズ三五五号二六〇頁)。鹿児島県内の事件としては、清掃遅刻体罰事件・鹿児島地判昭和五九(一九八四)年一一月六日判例地方自治一二号六一頁。運転免許取得体罰事件・鹿児島地判平成二(一九九〇)年一二月二五日判例時報一三九五号一二四頁(一部認容:確定)。なお鹿児島県内の事件に、体罰などを理由とする県教委による免職処分が争われた鹿児島地判昭和六一(一九八六)年七月一八日判例タイムズ六二二号一〇五頁があります。
  体罰容認論の側がよく例に出しますいわゆる非行生徒に対する体罰は、裁判例からみる限りまず例外でしょう。わずかに、番長グループの副番長に選出された中学二年生が授業中に席を離れたのに対して担任教諭が出席簿で頭を叩いたことが違法な懲戒行為にあたらないとされた事件(浦和地判昭和六〇(一九八五)年二月二二日判例タイムズ五五四号二四九頁)があるにすぎません。
  体罰というのは、要するに強者が弱者を力によってねじふせる行為であって、教育効果はまずありません。平成二年の鹿児島地裁判決はこう述べています。
  「原告がふてくされたことについても、(免許の)取得日を偽らざるを得なかったことにもそれなりの理由があった。・・・・・・被告がもう少し深いところで相対していたら、原告の態度は違った可能性がある。・・・・・・被告は原告のいわば良心を覚醒させるために体罰に及んだというのであるが、・・・・・・どれほどの効果があるのか大いに疑問である。少なくとも本件においては逆効果であったことは歴然としている」。
  体罰によって子どもたちが学ぶことができるものは、「暴力による支配と服従」のみです。暴力は際限なく弱い者に向けられていきます。古い思想の残滓は一掃されなければなりません。たとえば文部省が発行しています『生徒指導の手引(改訂版)』(大蔵省印刷局、一九八一年)には、その第二章生徒指導の原理の箇所に、援助・指導の基盤としての人間関係の類型として、権力−支配−盲従の関係、権威−尊敬−心服の関係および出会いの関係の三つが生徒指導上重要なものとして挙げられています。このなかで次のような表現があります。「権威−支配−盲従の関係は、専ら外からの強制的な力に頼るもので、指導される者が指導者に対して恐怖心を感じ、その恐怖心を免れるために服従する。きまりに従う行動をさせるためには、このような権力−支配−盲従の関係も効果的であるが、・・・・・・絶えず権力を生徒の眼前に提示することを続けなければ、所期の目的を達成することができないというおそれがある」(同書二六頁)。恐怖による支配という考え方は私たちの社会にはもうなじみませんし、生徒指導の点でも効果があるはずがありません。

【2】裁判例からみた教師の行為規範
  いじめ事件に遭遇した際に、教師らはどのように対応すべきなのでしょうか。教師・学校側に対して求められる行為規範について考えてみることにします。裁判例では、いじめによる被害生徒の心身の受傷あるいは自殺に対して学校側に過失があるかないかの判断の際に、その論理的な前提として学校側が尽くすべき注意義務ないし行為義務が論じられています(国家賠償法一条、民法七一五条、民法七〇九条参照)。
  まず、いじめとの関係で学校側の責任が否定されている事例をみておきます。判決@は、判決文中にいじめという表現はみられませんが、級友から繰り返し恐喝・暴行を受け、このことを父親を通して担当教諭に通報した直後に、逆に加害生徒らによって脅迫されて自殺した事件です。「自殺は人の内心に深くかかわるものであって、他人がこれを予見するということは、・・・・・・自殺を裏付けるような当該本人の言動が他人に認識し得る形で現出しない限り、極めて困難なことといわなければならない」と述べて、自殺を予見し防止措置をとることは困難であるとして担任教諭の過失を否定し、国家賠償請求を棄却しています。 判決@は、自殺に焦点をあわせて、自殺を予見することができない(「自殺は人の内心に深くかかわるものであって、他人がこれを予見するということは・・・・・・極めて困難なことといわなければならない」)から、教諭の過失はないという論理構成をとっていますが、判決E、Gの構成と比較しますと、疑問が残ります。被害生徒の自殺が父親の学校側への通報の二日後と日時が接近していることや、「高校生」の自殺という要素が影響しているのかもしれません。判決文を読みますかぎりでも、加害生徒によって被害者は逆に窃盗の罪まで着せられそうになっていますし、このことを学校側も知っていたわけですから、学校側の手落ちといいますか、軽率さという疑問は拭いきれません。「双方の動静をもっと細かく観察して」いたならば、自殺という最悪の結果は避けられたと思います。
  判決Cは、小学校入学直後からいじめが始まり、一一月には後頭部殴打事件が発生し、小児神経症にかかり、登校拒否を経て、転校した事件です。担任教諭は、殴打事件後、原告の母親からいじめについての話を聞かされた後は、いじめ防止のための措置をとっていたとして、教師の過失は否定されています。判決の事実認定によりますと、殴打事件前には被害児童本人からも母親からもいじめに関する訴えはなかったとされていますし、事件後は、担任教諭は児童が受診していた医者の意見も聞くなどして被害児童の様子を観察し対応しています。観察ノートもあるようです。
  判決Fは、被害生徒が中学三年生当時、同級生からの度重なるいじめによって自律神経失調症にかかり登校拒否に至った事件ですが、安全配慮義務違反ないし安全確保義務違反はないとされています。象徴的な出来事にナイフ事件があります。これについて裁判所は次のように判断しています。ナイフ事件は、凶器が使用された悪質な事件であるが、数人の教諭が加害者に暴力行為をしないように指導し、学年会等において取り組みもなされているから、「確かに右指導の効果には疑問がないわけではないが、同原告の身体的被害が比較的軽微であり、その後同原告に変わった様子が見られなかったこと等に照らし、学校側の当時の対応に手落ちがあったとは認められない」。また、登校拒否後の被告の対応についてこう判断しています。「もっとも、その対応が、いじめ問題を抜本的になくするという観点よりは、やや表面的であり、・・・・・・理想論からすれば適切な対応がなされたかどうかという点において疑問がないとはいえない」。この判決は、いじめ事件の立証の困難さを示す事例だと思います。 判決Hでも、学校側の責任は否定されています。同級生から二回にわたって殴る蹴るの暴行を受けた被害生徒が教諭に訴え、教諭は加害生徒を説諭したのですが、加害生徒はさらに報復的な暴行を加えた(木曜日)。再度指導説諭がなされたのですが、この間に被害生徒は一時行方不明となった後(金曜日)、再び登校した(月曜日)が学校内で自殺した事件です。裁判所は、学校側の責任を問うためには、加害行為当時において学校側に予見可能性が必要であるとしたうえで、学校側の予見可能性を否定しています。当初の加害行為から六日後の自殺ということが判決に影響しているように思います。
  ただ、判決は学校側の法的な義務に反するような落ち度は否定していますが、つぎのようにも述べています。「被告としては、損害賠償法上の責任はともかく、この種の事件に対する教育機関としての対応について、他によりよい方策がなかったものかどうか、孤立しがちな生徒のあやうい心情をもっと日常的に思いやることはできなかったものかどうかを、さらに検討模索する必要があるように思われる」。
   これに対して、判決Aは学校側の責任を認めています。判決Bは、小学校四年生の女児がズッコケと称する悪戯によって転倒し負傷した事件です。この事件は、原告が同組の男子児童から集中的かつ継続的に暴行を受け、また悪戯をされている事実を教諭は認識していましたし、事故の一か月前には、それまでも数回にわたり善処を求めたことがある母親から警告ともいえる強い調子の訴えも受けています。裁判所は、不測の事故が起こりうることをくり返し真剣に説いて、原告に対する暴行を止めるよう厳重に注意すべきであったにもかかわらず、いじめを根絶するための抜本的かつ徹底した対策を講じなかったとして教諭の過失を認めています。判決Dは学校側の責任を認めています。判決E、Gは、自殺との関係では学校側の責任を否定しましたが、いじめによる被害生徒の心身の受傷との関係では責任を認めています。
  安全保持(配慮)義務ないし安全確保義務という表現の下で、学校側に課せられている注意義務の内容をもう少し細かくみておきます。まず最初に、この二つの表現のニュアンスは少し違いますので、これに簡単に触れておきます。裁判所は、安全配慮義務を「ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務」と定義し、不法行為規範のもとでの生命、健康等を保護すべき義務とはまずは区別しています(最判昭和五〇(一九七五)年二月二五日民集二九巻二号一四三頁)。安全確保義務の方は、不法行為の成立要件(七〇九条、七一五条、国家賠償法一条参照)として過失があったかどうかを判断するその論理的な前提となる注意義務ということになります。当該の具体的な状況において当該の職業・地位などにある通常人が払うことを期待されている注意義務に違反した場合には過失があるということになります。ただいずれの表現、法律構成をとりましても、侵害されている保護法益に着目しますと、生命・身体・所有権といった完全性の利益が保護法益になっています。この完全性の利益は、一般的には契約の際に追求されています契約利益・給付利益とは違います。完全性の利益は不法行為法上の保護法益です。このあたりはすこし議論があるところですが、一応このように説明しておきます。
  さて、安全保持(配慮)義務の内容ですが、判例Dはつぎのように捉えています。「安全保持義務は、既に一定の事実が把握されており、その事実だけからしても重大かつ深刻ないじめが推察されるという時のほか、生徒やその家族からの具体的な事実の申告に基づく真剣な訴えがあったときには、前記のいじめの特質に思いを致して決してこれを軽視することなく、適切な対処をしなければならないということになる」。この判決はまず、学校生活においておよそ生徒間の衝突が起こらないように、学校側が常時管理監督するというようなことは相当でなく、実際上も不可能であると述べています。
  つぎに、学校生活はかなりの程度生徒達の自主性・自律性に委ねておくべきものであるけれども、なお未熟な子ども達であり、集団心理が働くなどして途方もない無責任で危険な行動に走ることもないとはいえないので、「学校側としては、この点についての警戒心をもって生徒達の動向に関心を払い、もしもある生徒(達)の行動により他の生徒の生命は勿論、身体、精神、財産等に重大な危害が及ぶことが現実に予想されるというようなときには、これを放任することなく、直ちに事態に応じた適切な措置を講じて、結果の発生を未然に防止すべく努力しなければならない」と述べています。この判決は学校側の過保護・過干渉を退けるとともに、生徒の生命身体に危険が迫っているときの学校側の積極的な行動を求めています。 判決E、Gも次のように述べています。
  判決Eは、安全保持義務の内容について、「諸般の具体的状況に照らして、そのまま放置したのでは生命若しくは身体への重要な危険又は社会通念上許容できないような深刻な精神的・肉体的苦痛を招来することが具体的に予見されるにもかかわらず、故意又は過失によって、これを阻止することのできた実効的な方策をとらなかったとき、初めて安全保持義務違反の責めを負う」と述べています。
  また判決Gは、安全確保義務をつぎのように規定しています。「公立中学校の教員には学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮すべき義務があり、特に、他の生徒の行為により生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれが現にあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の発生を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講ずる義務がある」。これが、安全保持義務とか安全確保義務とか表現は異なりますが、学校側に課せられている一般的な注意義務の内容ということになります。
  つぎに、学校側の対処の仕方ですが、判決Dはかなり具体的に述べています。
 (1)まず、迅速かつ周到な調査により事態の全容を正確に把握することが必要です。当事者達はもとより必要に応じて周囲の生徒など広い範囲を対象にして事情聴取をする必要があります。
 (2)つぎに、事実調査の結果、放置することのできないいじめの実態が解明されたときは、教育的手段を講じなければなりません。問題を当事者だけの問題とするのではなく、必要な場合には学校全体の問題として取り上げなければなりません。いじめがいかに卑劣で醜い行為であるか、また被害生徒の屈辱や苦悩がいかに大きいものであるかを加害生徒はもちろん生徒達全員に理解させるとともに、周囲の生徒達にはいじめを決して傍観することなく、身をもって制止するか、あるいは教師に直ちに報告する勇気をもって欲しいということを訴える必要があります。
 (3)その上で、一定期間は特に注意深く当事者生徒の行動を見守らなければなりません。
 (4)なお、いじめが継続されているときには、「このまま事態が改善されないときには、児童相談所か家庭裁判所への通告というような手段をとらざるをえない」ということも明示するなどして、より一層強力な指導をなすべきです。
 (5)さらには、学校教育法二六条の出席停止の措置をとることも検討しなければなりません。
 (6)それでも依然として何らの効果がみられないときには、学校としては、もはや学校内指導の限界を越えるものとして、警察や家庭裁判所その他の司法機関に対して、当該行為を申告して加害生徒をその措置に委ねることもまた必要である、と述べています。
  この判決は上記(5)、(6)のところまで踏み込んで述べている点で注目されます。確かに、いわば緊急避難として出席停止等の措置も必要な場合があるでしょう。しかし、そのときその学校・教師の「教育」は敗北したのだということだけは忘れてはならないでしょう。いじめを根絶するという視点に立ったとき深く掘り下げて考えなければならないのはやはり、上記(1)、(2)の教育的手段の箇所です。一般的に言いますと、教師は各教科の専門家ではあっても、必ずしも児童心理学や精神医学の専門家ではありません。この点についての謙虚さがまず必要です。いじめられ体験のある生徒がその体験を書いたものを読みますと、事態の深刻さを理解できない不注意な教師、『天職(Beruf)』としての倫理観の育っていない教師はここで重大な失敗をしています。いわゆる「みせかけの話し合い」です。教師がいじめを絶対に許さないという確固たる立場に立っていない場合、「話し合い」によって被害生徒はいっそう辱められ、いじめが一層深刻化し、被害生徒は登校拒否や転校の選択をせざるを得ないところに追い込まれています。いじめの本質をめぐって様々な議論がありますが、いじめの本質は人権侵害です。しかも「遊び」として、他人の人格をもてあそび、やがては死にいたらしめる行為です。これは子どもたちが集団のなかで自我をぶつけ合いもまれながら自らの人格を形成していく過程で生じる様々なトラブル、ケンカとは違いますから、教師は毅然たる態度で問題に臨まなければなりません。
  ここで、もうすこし広い視野に立っておこなわれている提言を紹介しておきます。近畿弁護士連合会が昨年(一九九四年)一一月一八日に「いじめ被害の予防・救済に関する決議」をしていますが、六項目の方策を文部省などに求めています。
  @子どもが、真に自他の人権尊重意識を身につけることができるよう、子どもを個人として尊重し、授業や特別活動などあらゆる場面で、意見表明権を保障し、主体的参加の機会を確保すること。
  A教職員がゆとりをもち、一人一人の子ども達に応じた適切な対処をなしうるよう、教職員の定員増と三〇人学級を実現すること。
  B子どもが安心して相談できるスクール・カウンセラー等の専門の相談員を全ての学校に配置すること。
  C子ども・親・教職員が気楽に安心して相談できるよう、教育センターなどの公的教育相談機関を充実させること。
  D学校がいじめの内容や程度に応じ、子どもの人権に関する相談・対応機関である児童相談所・法務省人権擁護機関・弁護士会等との連携をはかれるよう、例えば定期的に協議会を開催するなど、救済のための実効性のある具体的システム作りを行うこと。
  Eいじめ問題を含む学校における子どもの人権侵害に対応するため、調査・勧告等の権限を有する第三者機関(たとえば、子どもの権利オンブズマン)を早期に設置すること(日弁連・自由と正義四六巻二号一四一頁)。

【3】自殺したことによる損害についての学校側の責任
  悪質ないじめによって被害生徒が自殺した場合、学校側がいじめを認識していたときには、自殺という結果に対して学校側は責任を負うと考えるべきです。 不法行為の場合の損害賠償の範囲を画定する基準として、最高裁は相当因果関係説=四一六条の類推適用説をとっています。学説においては早くからこの概念の問題性が指摘されていますが、いじめによる自殺事件の場合にはとくに相当因果関係説=四一六条類推適用説の問題点が浮き彫りになります。 判決DEGは、賠償範囲の画定に関しては相当因果関係説をとる判例理論を踏襲しています。判決Dは学校側の過失と被害生徒の自殺との間に相当因果関係を認めています。しかし判決EGは、自殺したことに対する学校側の責任を否定しています。まず学校側の責任を否定した中野富士見中学校いじめ自殺事件の二つの裁判例を見ておきたいと思います。いずれも予見可能性に焦点をあわせて論理を組み立てています。
  判決Eは、まず自殺は「一個の人間の意思的行為であること」、「その最後の一瞬におけるまでその者の意思に依存するものである」ことを強調しています。つぎに、教育行政上の課題と切り離して、損害賠償の責任の存否をめぐる法的判断としての予見可能性あるいは相当因果関係の有無の問題を論じます。法的判断としての予見可能性について次のように述べて否定しています。「本件事案は、先にいじめの不可視性として指摘したところがそのまま妥当するような事実に関するものであって、一郎が本件グループとの関係につきどのような心理的精神的反応を示していたかを外部から判断することは著しく困難であり、また、他に一郎が明白に自殺念慮を表白していたなどの特段の事情もみられない」。
  確かに、死にいたる病といわれている「いじめの特質」から切り離して一般論として、自殺についての予見可能性を問題にすると、判決Eが述べるように予見可能性は否定されることになるでしょう。「人がいかなる要因によって自殺への準備状況を形成し何を直接的な契機として自殺を決行するに至るかの心理学的・精神医学的な機序は、外部的にはおよそ不可視であって、明白に自殺念慮を表白していたなど特段の事情がない限り、事前に蓋然性のあるものとしてこれを予知することはおよそ不可能であるといわなければならない」。
  判決Gも、同趣旨のことを述べています。「本件いじめの内容を前提としても、いじめを受けた者がそのために自殺するということが通常の事であるとはいい難いところである」として、教師らの予見可能性を問題としています。「自殺についても損害賠償責任があるとするには、中野富士見中学校の教員らにおいて、一郎が本件いじめにより自殺するに至るということについて、その当時、予見し、又は予見することを得べかりし状況があることを要するというべきである」。そしてこの予見可能性は否定されています。なおこの判決においては、違法な懲戒行為と生徒の自殺との相当因果関係を予見可能性がないとして否定した最判昭和五二(一九七七)年一〇月二五日判例タイムズ三五五号二六〇頁が援用されています。
  これらの予見可能性を否定している裁判例を読んですこし気になる点があります。予見可能性概念を賠償範囲の画定のための基準として使う場合二つのことが問題になります。まず、予見の主体の問題つまり誰の予見可能性を問題にするのかという問題です。一般的に、予見の主体は加害者「本人」ではなくて「通常人」、現行民法四一六条の起草趣旨を説明した穂積陳重の表現を借りますと「通常ノ人ガ或ル取引ヲ致シマスル或ハ賣ル位置ニ在リマシタナラバ十人ガ八九人即チ注意深イ人多数ノ者」(『法典調査会民法議事速記録三』商事法務研究会、六六頁)であると説明されています。そうしますと、予見の主体は事件の起きた学校の個々の教諭ではないはずですが、裁判例では個々の教諭に焦点が合わされているのではないかという疑念があります。いじめや違法な懲戒を苦にして生徒が自殺する事例は、ずいぶん昔から報道もされていますし、裁判例も少なくはありません。深刻ないじめに機敏に対応できなかった教諭や違法な懲戒を行う教諭「本人」の予見可能性を問題にしたのでは、なにごとも予見できないという結論になってしまいます。この点に関する疑問を裁判所はまず払拭すべきです。
  つぎに、何を予見すべきなのか、予見の対象の問題です。いじめによる自殺の場合には被害生徒の「意思」的行為が介在していますから、とくに問題になります。相当因果関係を肯定した判決Dは、自殺することまでの予見可能性は必要ないとしています。「自殺の兆しがあったというまでの事実はおよそ認められない以上、学校側において二郎が自殺することを予見すべきであったということはできないものと考える。しかし、そもそも学校側の安全保持義務違反の有無を判断するに際しては、悪質かつ重大ないじめはそれ自体で必然的に被害生徒の心身に重大な被害をもたらし続けるものであるから、本件いじめが二郎の心身に重大な危害を及ぼすような悪質重大ないじめであることの認識が可能であれば足り、必ずしも二郎が自殺することまでの予見可能性があったことを要しないものと解するのが相当である」。なお、この判決Dは過失判断の際の予見可能性と相当因果関係の判断の際の予見可能性とを特に区別して論じるということはしていません。保護範囲・義務射程説の影響がすこしあるのかもしれません。保護範囲説の場合は、過失判断の基準と賠償範囲画定の基準とは同一です(平井宣雄『債権各論』(一九九二年)一一一頁以下参照)。 予見の対象は、被害生徒の心身に重大な障害をもたらす悪質重大ないじめであることであり、自殺することではないと考えるべきです。
  判例と同様に四一六条類推適用説をとる教科書、たとえば澤井裕『事務管理・不当利得・不法行為』(一九九三年)も、いじめ自殺の場合は、事実的因果関係の問題か賠償範囲の問題かいずれとも言いにくいとはしますが、自殺に対する賠償責任を肯定します(一九二頁)。いじめによる自殺の裁判例を直接論じる論文をみましても、その多くは自殺についての予見可能性を必要とはしていません(市川須美子「判批」ジュリスト九八〇号(一九九一年)、織田博子「判批」『教育判例百選(第三版)』(一九九二年)、潮見一雄「学校における『いじめ』と学校側の責任−とくに、いじめによる自殺を中心として」『現代社会と民法学の動向』(一九九二年)一二九頁以下、伊藤進「学校における『いじめ』被害と不法行為責任論−最近の『いじめ』判決を素材として」『現代社会と民法学の動向』(一九九二年)二六五頁以下など)。
  自殺の予見可能性に終始拘泥して学校側の責任を否定した判決EGは、裁判実務のとる相当因果関係説=民法四一六条類推適用説の問題点を浮き彫りにしているように思います。 相当因果関係=民法四一六条類推適用説に対しては、かなり古くから問題点が指摘されています。末弘厳太郎「不法行為と第四一六条」(『民法雑記帳 下』日本評論社、一九五三年、一八三頁以下に所収)は、立証の困難の問題をつぎにように述べています。債務不履行の場合には特別事情を予見する債権者は債務不履行の発生に先立ちあらかじめこれを債務者に通告して将来に備えることができるし、そうすると債務者の側でもあらかじめ注意して債務不履行におちいることを避けるよう努力する。これと異なって不法行為による賠償義務は不法行為によって突発するのであるから、もしもこれに第四一六条を適用すると、立証困難のため被害者が「特別ノ事情」による損害の賠償を請求することは非常に困難であろう。不法行為に関しては、あくまで具体的事情について実害を探求し、不法行為制度の精神にかんがみ実質的に相当因果関係の範囲を考慮して責任額の内容を決定すべきである。
  山田晟・来栖三郎「損害賠償の範囲および方法に関する日独両法の比較研究」『損害賠償責任の研究 上』(一九五七年)一六九頁以下、二一八頁以下の詳細な研究も、ドイツの相当因果関係説はある行為が「一般的に」一定の損害を惹起せしめるに足るとき、法律上その行為をその損害の原因とみるのであり、「一般的」とは「通常」よりも広い、通常でない「特別事情」をも含むのであり、そしていずれの場合にも当事者の予見可能性を問題にしないものであり、わが国の判例の相当因果関係=四一六条類推適用説は独特のものであることを明らかにしています。
   さらに最高裁の判決文中にも、民法四一六条の類推適用を批判する少数意見(大隅健一郎)が表明されています。大隅健一郎裁判官の説明はわかりやすいですから、すこし長くなりますが引用しておきます。
  「これに反して、多くの場合全く無関係な者の間で突発する不法行為にあっては、故意による場合はとにかく、過失による場合には、予見可能性ということはほとんど問題となりえない。たとえば、自動車の運転手が運転を誤って人をひき倒した場合に、被害者の収入や家庭の状況などを予見しまたは予見しうべきであったというがごときことは、実際上ありうるはずがないのである。その結果、民法四一六条を不法行為による損害賠償の場合に類推適用するときには、立証上の困難のため、被害者が特別事情によって生じた損害の賠償を求めることは至難とならざるを得ない。そこで、この不都合を回避しようとすれば、公平の見地からみて加害者において賠償するのが相当と認められる損害については、特別事情によって生じた損害を通常生じた損害と擬制し、あるいは予見しうべきでなかったものを予見可能であったと擬制することとならざるをえないのである。そうであるとするならば、むしろ、不法行為の場合においては、各場合の具体的事情に応じて実損害を探求し、損害賠償制度の基本理念である公平の観念に照らして加害者に賠償させるのが相当と認められる損害については、・・・・・・すべて賠償責任を認めるのが妥当であると言わなければならない。不法行為の場合には、無関係な者に損害が加えられているのであることからいって、債務不履行の場合よりも広く被害者に損害の回復を認める理由があるともいえるのである」。「右のような見解に対しては、当然、不法行為による損害賠償の範囲の認定につき裁判官の恣意が入り込むのを許すことになり、法的安定を害するとの批判が予想される。しかしながら、不法行為による損害賠償につき民法四一六条を類推適用しても、ある損害が通常生ずべき損害であるか、特別事情によって生じた損害であるかの限界は必ずしも明らかでなく、これを区別することは実際上困難な場合が少なくなく、そのことは予見可能性の存否についても同様であって、結局は、公平の観点に照らして行為者にその損害を賠償させるのが妥当かどうかの判断が先行し、それを前提として民法四一六条の規定の解釈上の操作がなされることになるのである(最判昭和四八(一九七三)年六月七日民集二七巻六号六八一頁、最判昭和四九(一九七四)年四月二五日民集二八巻三号四四七頁の大隅意見も同じ)」。
  いじめを原因とする自殺事件もそうですが、体罰など違法な懲戒を原因とする自殺事件でも、学校側の責任が否定されている裁判例が目につきます。高校生部活動体罰自殺事件・岐阜地判平成五(一九九三)年九月六日判例時報一四八七号九〇頁。高校生違法懲戒自殺事件・最判昭和五二(一九七七)年一〇月二五日判例タイムズ三五五号二六〇頁(控訴審:福岡高判昭和五〇(一九七五)年五月一二日判例タイムズ三二八号二六七頁、第一審:福岡地(飯塚支部)判昭和四五(一九七〇)年八月一二日判例時報六一三号三〇頁)。この問題を少し考える必要があります。
  最高裁の昭和五二(一九七七)年の判決は、懲戒行為は、担任教諭としての懲戒権を著しく逸脱した違法なものではあるが、それがされるに至った経緯、その態様、これに対する光太郎の態度、反応等からみて、・・・・・・教師としての相当の注意義務を尽くしたとしても、光太郎が右懲戒行為によって自殺を予見することは困難であった、として懲戒行為と自殺との間に相当因果関係がないとした原審の判断をそのまま認めたものです。
  判例のとる相当因果間係説=四一六条適用説に賛成する学説は、結論を説明ないし説得するための道具としてこの説の有用性を主張し、「問題は、もっぱら政策的判断にかかる問題であり、当事者の地位、加害の行われた社会関係の種類、損害の種類、社会の意識、等々によってその判断は変化するものだからである」(森島昭夫『不法行為法講義』一九八七年、三二四頁)と述べています。 そうしますと、予見可能性がないとして自殺に対する学校側の責任を否定する裁判例は、ひとつの政策判断をおこなっていることになります。二つのことが問題です。ひとつは、判決文中に政策判断が明瞭な形で、つまり他からの検証を促す形で述べられていないことです。わずかに文の端々から推測しうるのみです。政策判断ということで気になりますのは、交通事故の後遺症を苦にして自殺した事例の判決の傾向との比較の問題です。従来から下級審判決は法律構成は様々ですし、過失相殺ないし寄与度減殺はいたしますが、自殺したという結果に対する責任を認める傾向にありました。しかし最高裁は交通事故と自殺との因果関係を否定していました(最判昭和五〇(一九七五)年一〇月三日交民集八巻五号一二二一頁)。この判決では、事故と自殺との条件関係を認めたうえで、「性格変化が本件事故による亡治美の受傷から通常生じうると認めることは極めて困難である」し、また「加害者側において亡治美の自殺を予見しまたは予見しうる状況にあったと認めることも困難である」として相当因果関係の存在を認めなかった下級審の判断をそのまま認めています。ところがごく最近、最高裁は交通事故と自殺との因果関係を肯定した判決を出しています(最判(一小)平成五(一九九三)年九月九日交民集二六巻五号一一二九頁)。もちろん事案を異にしますから、慎重に評価しなければなりませんが、すこし最高裁にも変化が出てきたように思います。この判決文を少し紹介しておきます。
  「身体に重大な器質的障害を伴う後遺症を残すようなものでなかったとはいうものの、本件事故の態様が勝に大きな精神的衝撃を与え、しかもその衝撃が長年月にわたって残るようなものであったこと、その後の補償交渉が円滑に進行しなかったことなどが原因となって、勝が災害神経症状態に陥り、更にその状態から抜け出せないままうつ病になり、その改善をみないまま自殺に至ったこと、自らに責任のない事故で傷害を受けた場合には災害神経症状態を経てうつ病に発展しやすく、うつ病にり患した者の自殺率は全人口の自殺率と比較してはるかに高いなど原審の適法に確定した事実関係を総合すると、本件事故と勝の自殺との間に相当因果関係があるとした上、自殺には同人の心因的要因も寄与しているとして相応の減額をして死亡による損害額を定めた原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない」。
  交通事故の場合と比較しますと、違法な懲戒やいじめを苦にして自殺した事例では、「予見可能性」がないという構成によって自殺に対する学校側の責任が否定され、国家賠償請求が退けられているのが圧倒的です。一つの政策判断が働いているのかも知れません。また一般的に損害賠償の範囲に関して、最高裁はその範囲を広げようとしていますから、それだけに気になります。たとえば、通常損害の範囲を広げようとしているものがあります。最判昭和四九(一九七四)年四月二五日民集二八巻三号四四七頁は、交通事故により重傷を負った被害者の家族が看病のために外国から一時帰国する場合の帰国旅費を通常損害としています。「国際交流が発達した今日、家族の一員が外国に赴いていることはしばしば見られる事態であり、また、日本にいるその家族の他の構成員が傷病のため看護を要する状態となった場合、外国に滞在する者が、右の者の看護等のために一時帰国し、再び外国に赴くことも容易であるといえる」。このような考え方をとりますと、いじめにより被害者が自殺した事例でも、因果関係の中断的な考え方をとるのでなく、ともかく条件関係は認めるのであるならば、通常損害として法律構成する余地はあるように思います。
  より重要な疑問ですが、賠償範囲は政策判断の問題であるとして割り切る前に考えるべきことがあるのではないでしょうか。水俣病についてのチッソ・行政の責任論を論じて、原田正純はこう述べています。「第三の責任は救済の責任である。すなわち、百歩も二百歩もゆずって発生も阻止できず、拡大も阻止できなかったとして、いったいあとなにが残っているかといえば、それは即時全面的な救済、完全な償いをするしかないはずである(原田正純『水俣が映す世界』(日本評論社、一九八九年)八頁)」。いじめによる自殺事故の場合にも同じことが言えるのではないでしょうか。 損害賠償の範囲の問題については、民法の出発点に立ち戻って考えたらどうでしょうか。この点では山田晟・来栖三郎の研究や平井宜雄『損害賠償法の理論』(一九七一年)三〇九頁以下が参考になります。
  法典調査会での審議の模様に簡単に触れておきます(法典調査会民法議事速記録五(商事法務研究会、一九八四年)二九六頁以下)。七一九条(=現行民法七〇九条)の審議の際に、賠償範囲について制限が必要ではないかという意見が出ています。土方寧委員は、四一五条(=現行四一六条)にあるような制限はないと解せられるが、誰でも過失のない者はないし、それを過失によって生じたものは皆責任を引き受けなければならないというのはずいぶん酷な話であると述べています。さらに土方委員は、過失によって人を殺した場合について特別な規則が必要ではないかとして、こんな表現もしています。あまり厳重にすると人間は生きて居っても何もせずに死んだ積もりで居れば間違いはないけれどもそういう訳にもいかぬ。それで言いたいことも言いしたいこともするその結果過失で以て他人に損害を加えると非常な制裁がある。そういうことになると、言わず聞かず見ずに居って唯三度の飯を食って家に寝て居れば宣いということになる結果は、それは本来の吾々の希望することではない。過失というものは誰でも免れない。そういう場合に無限の責任があるということは実に酷な話と思います。しかし、審議には一七名の委員が加わっていますが、土方意見への賛成意見はなく、土方委員も修正案を出すにはいたりませんで、原案通り承認されています。なお、七三〇条(=現行七二二条)の審議の際にも土方委員から、四一六条(=現行四一七条)に加えて四一五条(=現行四一六条)も準用するとする修正案が出されていますが、議長は賛成がありませんので成立しませんと述べています(法典調査会民法議事速記録五、四二七頁以下四四〇頁)。
  この審議のなかで、梅謙次郎委員は、これはずいぶん主義問題でなかなか大切な問題ですから私の意見を述べますと前置きしたうえで、こんな趣旨のことを言っています。債務不履行の場合も損害賠償の所の制限について不賛成ではあるけれども多少の理屈は認めています。これに反して、不法行為の場合はそのような事情はありません。他人の権利を侵したということに余儀なくなったのではない。自分でそれは避ければ避けられることをやったのです。避けられるのにそういう権利を侵しておきながら、後からそんな損害が生じたかは知らないが、自分はそのような損害を生じさせるつもりはなかった。そういうことは思いもよらないことであると言って責任を免れるというのは無理な話です。それゆえ法律の表からは・・・・・・それが身代のあらん限りは出して償わなければなりません。それがいやならば初めから他人の権利など侵害しない方がよろしい。さらに梅委員はこう付け加えています。法律の表から制限を付するということはいかにも法律というものは人の権利を保護しないということになってそういうことは面白くないから民法に書くのは大不賛成である。
  しかし賠償範囲についてまったく制限がないのかといいますとそうでもありません。現行民法七〇九条の起草趣旨を説明した穂積陳重委員は、原因結果の関係がある以上はその結果の全部その責任者が賠償の責めに任じなければならないと述べた後に、賠償範囲を限定するような口振りをしています。・・・・・・それをどこから切るとかいうことは法の規定としてはむつかしいので、そこは生きている裁判官に原因結果の関係があるとかないとかいうことを任せておく方が穏当であろう。また穂積委員は、通常生ずる損害と特別事情から生ずる損害との区別に触れて、こう述べています。原因結果の関係を予言することができるとかできないとかいうことは言いかねることでありますから、かくのごとき区別をせずしてゑらすちつくに(=柔軟に)なっておるほうが宜しかろうと思いました。大勢の例の賢明なる裁判官に任せた方が安心と思ってこうしました。
  山田・来栖論文は、その研究の結論として、「日本民法は、・・・・・・損害賠償の範囲は当事者の予見可能性の有無を問わず当該不法行為と相当因果関係にある全損害であったと思われる(「前掲論文」二二三頁)」と述べています。法典調査会での審議や起草委員の著作などからしますと、不明瞭な部分もありますけれども、私たちの民法はいわゆる完全賠償の考え方を前提にして、その上で制約を考えるというところから出発していると考えられます。少なくとも民法四一六条を類推するという考え方ははっきり否定されています。しかしながら、民法の起草者の損害賠償の範囲に関する考え方は、ドイツ民法の完全賠償の考え方に非常に近いものであったにもかかわらず、損害賠償の方法としては、ドイツ民法のような原状回復(被害者ヲ元ノ位置ニ復スル)の方法を採用しないで、「金銭ノ如ク最モ便利ナルモノ最モ損害ヲ割リ當ルコトガ易イ」(法典調査会民法議事速記録三、八〇頁)という理由で金銭賠償を原則としたことが(民法四一七条参照)、その後の裁判例のゆがみを生じさせた一因になっているように思います。
  判例もまた当初は、民法四一六条は不法行為には適用がないとして、予見可能性を問題にしていません。「不法行為ヨリ生スル損害ノ賠償ニ付テハ民法第四百十六条ノ規定ヲ適用スヘキモノニ非ス苟モ其行為ト損害トノ間ニ因果ノ関係ヲ有スルニ於テハ其損害カ通常生スヘキ損害ナリト又ハ特別ノ事情ニ因リテ生シタル損害ナルトヲ問ハス等ク加害者ニ於テ之カ賠償ヲ為スノ義務ヲ有スルモノトス而テ其行為ト損害トノ間ニ因果関係アリト做スニハ事物通常ノ状態ニ依リ社会普通ノ観念ニ基キ之ヲ判断スルノ外ナキモノトス(大判大正六(一九一七)年六月四日民録二三輯一〇二六頁)」。
   しかし、富喜丸事件の判決(大民刑聯判大正一五(一九二六)年五月二二日民集五巻六号三八六頁)を契機に相当因果関係説=民法四一六条適用説へと裁判実務は変わっていきます。船舶の衝突・沈没事故の事例です。船舶の滅失毀損の賠償額は、滅失・毀損当時の価格(交換価格)によるし、この価格のなかに船舶の通常の使用(収益)価格は含まれる。船舶の特殊の使用収益による利益(傭船料)については、船舶衝突当時の予見可能性を要するとし、また騰貴した価格による賠償請求については、騰貴した価格によって物を処分し又はその他の方法によって該価格による利益を確実に取得したという事情があること及びその事情の不法行為の時点での予見可能性(予見し又は予見し得べかりしこと)を要するとしています。原審は、騰貴価格での賠償請求は「事物自然の趨勢にあらず」として退けていましたが、従来の判例理論に従って予見可能性を問題とすることなく、(船体価格の賠償に加えて)使用収益価格の賠償は認めていたのです。大審院は従来の判例(大判大正六(一九一七)年六月四日など)を変更しました。
  判決はこう述べています。自然的因果関係からすると、通常生ずべき損害か特別事情によって生ずる損害かを問わないし、また予見しうるものかどうかも論じないで加害者は一切の損害につき責めに任じなければならないけれども、その責任の範囲は広きにすぎ加害者をして無限の負担に服せしめるにいたり、われらの共同生活に適しない。共同生活関係において加害者の責任を問うときには、加害者をして一般的に観察して相当と認めうる範囲においてのみその責めに任ぜしめるのが法理にあう。相当因果関係の範囲を明らかにしている民法四一六条を不法行為に基づく損害賠償の範囲を定めるについて類推する。  この判決には説得力のある理由は示されていません。その当時の時代思潮を推測することができるだけです。富喜丸事件についての最も詳細な論文も、具体的結論および一般論ともに不当であり、「富喜丸理論の地位はいかなる意味においてももはや維持されるべきではない(平井宜雄・栗田哲雄「富喜丸事件の研究(二)」法協八八巻二号(一九七一年)二五三頁)」とその研究の最後を結んでいます。
 
【4】裁判例にみる加害生徒像
  裁判例にも現れていますが、報道されているいじめのなかには極めて陰惨なものがあります(子どものしあわせ編集部編『いじめ・自殺・遺書』(草土文化、一九九五年)、朝日新聞社社会部『なぜボクはいじめられるの』(教育資料出版会、一九九五年)、村上義雄『ルポいじめ社会』(朝日文庫、一九九五年)土屋守『500人のいじめられ日記』(青弓社、一九九四年)、法務省人権擁護局内人権実務研究会『いじめQ&A−子どもの人権を守ろう』(ぎょうせい、一九九四年)など参照)。したがいまして、加害生徒に対する厳罰主義ともいうべき考え方が出てきましてもやむを得ない面があります。しかしこの点はもう少し掘り下げて考える必要があると思います。
  たとえば判決Dは、教育的手段を講じた上でなお依然として何らの効果もみられないときは、もはや学校内指導の限界を越えるから、警察や家庭裁判所その他の司法機関に加害生徒の措置を委ねることも必要であると述べています。問題行動が繰り返されることによって被害生徒の心身に重大な障害が生じることが予想されるわけですし、加害生徒にとってもまたその非行性がより一層深くなり、その将来にとって好ましくない結果をまねくわけですから、これも必要な措置だと思います。
  しかし問題が司法の手に委ねられた場合には、加害生徒の処遇という別の問題がでて参ります(第一東京弁護士会少年法委員会『子ども・家庭・・・そして非行』(ぎょうせい、一九九四年)など参照)。最近テレビドラマ化されて話題になりました『家栽の人』から少年事件の処分についての主人公のことばを引用しておきます。「凶悪ならば重く、罪が浅ければ軽く、というのが世間の常識ですからね。裁判官もそれを意識せざるを得ない。それを、忘れたらどうです?厳しい罰を与えれば、問題のある少年が自分達の前から消えると思うこと自体、完全な誤解です。どんなに長い処分を与えても、少年は社会に戻ってくるんです。誰かの隣に住むんですよ。その時・・・・・・その少年が、笑って暮らしている可能性を探すのが、裁判官の仕事じゃないんですか。(毛利甚八原作『家栽の人B』(小学館、一九九〇年)一一〇頁)」。
  このような考え方に立ちますと、問題はやはり学校教育に投げ返されてきます。日本の教育のあり方そのものを見直す必要があるのだと思います。加害生徒もまた現在の学校教育から疎外された存在であるという教育社会学の研究者の指摘が重要です。「いじめっ子のいじめ加害は、自分をふるい落とすものへの強要された抵抗と反抗にほかならない。また、教師の目を引くためであり、そうしたいじめをはたらいたとき、自分を取り囲みはやしたててくれる「観衆」や止めに入ってくれる「仲裁者」への自己存在のアピールであり、彼らと同じ存在の子どもであることを自ら確認しようとする自己同定の作業と映る。そういう意味では、いじめっ子よりさらに問題で悪質なのは、彼を取り巻く観衆や「一見」仲裁者なのかもしれない(森田洋司・清永賢二『新訂版 いじめ−教室の病理−』(金子書房、一九九四年)一一五頁以下)」。その他、前島康男『いじめ−その本質と克服の道すじ−』(創風社、一九九五年)など多くの文献でこの点は指摘されています。
 
 三  結びに−日本社会における「個」の確立
  死に至る病ともいわれるいじめを一掃するために学校側の全力を挙げた取り組みを要求したいと思います。すくなくとも被害児童の死という最悪の事態を回避する義務が学校側にはあるのだということをまず強調しておきます。もちろんいじめの発生は一つの学校、一つの家庭のみにその原因が求められるものではないでしょう。経済学の研究者もゆとりと引換にした日本社会の豊かさのゆがみを指摘しています(暉峻淑子『豊かさとは何か』岩波新書、一九八九年)。「競争社会から落ちこぼれたら、住居も持てず、病気をした時みじめな扱いしか受けられず、老後は人間らしい余生も送れない」。貧しい人を蔑視する政治の風潮という指摘を否定することができる人はいないでしょう。今の日本は他人を思いやることが難しい社会ができあがってしまっています。教育の分野もまたそうです。ひとり一人の人権、ひとり一人の「個」が尊重されない教育、権威主義的ないし集団主義的教育というものがあるように思います(学校を支配する「強者の論理」については、麻生信子『君に「いじめは」似合わない−教室発いじめ通信』(二期出版、一九九五年)を参照されたい)。これは日本社会のあり方そのもの、近代日本社会のあゆみそのものを問いかけるものです。
  近代法が想定する世の中はどのような世の中でしょうか。憲法の研究者は、「ひとりひとりが自分自身の考えをもち、必要なときはそれをいいあらわし、そのうえで、他人との関係をとりむすぶ、そういう世の中である」(樋口陽一『自由と国家−いま「憲法」のもつ意味』(岩波新書、一九八九年)二〇七頁)と述べています。ここで指摘されています日本社会における「個」の問題については、日本人は世界的にみるとかなり個人主義的傾向のつよい民族ではないかという指摘もあります。「日本や西ヨーロッパは、・・・・・・庶民のはしばしにいたるまで、個性的な個人であらしめるような力がつねにはたらいている国ではなかったか(梅棹忠夫「新文明世界地図」『文明の生態史観』中公文庫、一二九頁)」。視角を広くとりますとそのような見方もできるのかも知れませんが、やはり明治期以来、日本社会の課題とされてきたのは「個の確立」であったし、今なお私たちの課題であり続けていると思います。夏目漱石がこんな表現をしています。
   「私のここで述べる個人主義というものは、・・・・・・他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、・・・・・・。もっと解りやすくいえば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動をしないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。・・・・・・個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明めて、去就を定めるのだから、或場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから(夏目漱石「私の個人主義」三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫、一三〇頁以下)」。
  いじめ問題は日本社会が抱え込んでしまった病理の縮図でしかない、別の表現をしますと、大人文化がこどもの文化を飲み込んでしまったからこそ問題はより深刻なのではないかと思います。子どもの出生数の減少もあり受験競争は緩和されていくのではないかという大方の希望を込めた観測とは裏腹に、いまや学力による選別に加えて、意欲・関心といった個性すら点数化され子ども達の進路に立ちふさがっています。いま子どもたちの世界、心の深部は閉息状況にあるのではないでしょうか。学校や集団への過剰適応現象がみられる一方で、虚無の思想も入り込んでいるような気がします。
  しかし文部省の「いじめ対策緊急会議」が今年(一九九五年)の三月一三日に出しました報告書をみますと、もちろん大切な指摘もなされてはいますが、この報告書には「社会で許されない行為は子供でも許されない。・・・・・・」といった表現に象徴的に現れますようにずいぶん牧歌的な雰囲気が漂っています。また、いじめっ子とその親だけが厳しく責めたてられている印象があります。報告書の「基本的認識」部分の概略を紹介しておきます。
  「一、いじめは人権にかかわる重大な問題である。この問題では、いじめる側が悪いのだという認識に立ち、毅然とした態度で臨むことが必要である。社会で許されない行為は子どもでも許されない。傍観したり、はやしたてたりする者がいるが、こういった行為も同様に許されないとの認識をもたせることが大切だ。二、いじめられている子どもも、恥ずかしさや仕返しを恐れるあまり、尋ねられても否定することが多い。従って、子どもの苦しみを親身になって受けとめ、子どもが発する危険信号を、あらゆる機会を通じて鋭敏にとらえることが大切である。その際、いじめかどうかの判断は、あくまでいじめられている子どもの認識の問題であることを銘記し、表面的な判断で済ませることなく、細心の注意を払うことが不可欠である。三、いじめは弱い者、集団とは異質な者を攻撃、排除する傾向に根ざして発生することが多い。特に学校では、教師が単一の価値尺度により児童生徒を評価する指導姿勢や何げない言動などに大きなかかわりをもっている場合があることに留意すべきだ。子ども一人ひとりを多様な個性を持つ、かけがえのない存在として受け止め、教師の役割は児童生徒の人格のより良き発達を支援することにあるという児童生徒観に立つ必要がある。四、いじめ問題では、親や教師などの関係者が責任を他に転嫁し合うという形で議論が拡散し、対応に実効性を欠くきらいがあった。最も大切なことは、関係者が一体となって問題に取り組み、早急な解決を図ることである。五、家庭は子どもの人格形成に一義的な責任を有しており、いじめ問題の解決のために重要な役割を担っている。各家庭において、家庭の教育的役割の重要性を再認識することが強く求められる(朝日新聞・一九九五年三月一四日付参照)」。
  この報告書には、いじめ問題が全国的に蔓延ししかもこの状態が長期間続いているその原因について深く思いをめぐらすという「基本」が欠けているのではないでしょうか。
 裁判所によって指弾されている教師、いじめを傍観している子どもたちの姿は、わが国の「人を人と思わない状況」の広がりに重なり合うものです。大人であれ、子どもであれ、自らの人権が不当にも踏みにじられたときに声をあげるということは権利でありますし、義務であるとさえいえます。いじめられている子ども達が「声」をあげられるような環境作り、教育が重要です。いじめを受けているということは恥ずかしいことではありません。冒頭に『墨汁一滴』から子規の言葉を紹介しておきましたが、『歌よみに与ふる書』などを読みますと、これは非常に気性の激しいひとです。いじめられっ子は、弱い子だという考え方もありますが、そうではないということは強調しておきます。
  最後に、今年は戦後五〇年という節目の年を迎え様々な議論がでていますが、一九五一年の中野好夫の発言を引用させていただいて、いじめと人権という今回のテーマを閉じたいと思います。
  「満州事変から太平洋戦争敗北までにいたる、あのあまりに大きすぎる一連の代価から、ぼくが学んだ最大教訓の一つは、近代社会の市民というのは、専門、非専門にかかわらず、各人の信念はもし機会があれば表明することをしなければならぬ。もっと進んでいえば、それこそが市民の最大義務の一つであるということであった。国民の一人一人が、もっと勇敢に、何物もおそれず、所信を表明していたならば・・・・・・あの超国家主義の勢力拡張時代にあって、あれを心から積極的に支持していた国民は、真贋併せてもむしろ少数者であり、決して大多数ではなかったのではないか。・・・・・・たまたま国民の声を勇敢に発言した人々は、権力を憚る国民によって空しく見捨てられ、徒らに面従腹背の市民たちが、卑屈の沈黙と心にもない権力追従をつづけているうちに、ありもしない恐るべき国民の総意なるものが、いつのまにか作り上げられてしまっていたのである(中野好夫「自由主義者の哄笑」『悪人礼賛』ちくま文庫、二一八頁)」。
 (付記)本稿は、一九九五年度鹿児島大学公開講座『リカレント法律学−人権−』(法学科主催)のなかの一テーマ「いじめと人権」(九月二三日開催)のために準備したものである。
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