侵略の跡をアジアにたずねて


 昨年の秋、日本生協連の主催した「アジア平和の旅」に参加して、マレーシアとシンガ ポールに行ってきた。その目的は、アジア太平洋戦争(一九四一〜一九四五)のさい、日 本軍の侵略によってもたらされた虐殺の跡を検証することだった。案内役を在日の中国系 マレーシア人ジャーナリスト(聯合早報コラムニスト)である陸培春(ル・ペイチュン) さんがつとめてくれた。
 マレーシア・シンガポールでは、住民のなかで、とくに中国系の人々(いわゆる華僑) に対する虐殺、圧迫が目立っている。日本は、中国(蒋介石政権)と戦争をおこなってい たので、いわばその支援を絶つためにマレーの中国系の人たちが標的にされたという。ク アラルンプール郊外、マラッカ、南部のジョホールバールと、虐殺を記憶し、犠牲者をと むらう碑が各地にたてられていた。
 クアラルンプールから南東の山地にはいったカンウェイ、イロンロン村は、日本軍によ って、もっとも大規模な虐殺がなされたところである。一九四二年三月一二日、日本軍は クアラピラ県に「相当潜在」している「敵性分子を摘発芟除(さんじょ=除き去ること) せんとす」とする「治安粛清」命令を発した。「共産党根拠地」とされ、「本地域の支那 人は抗日分子」であるとして、作戦にはいったの。日本軍は、住民をろくに調べもしない で「抗日ゲリラ」と断定して、どんどん殺害していった。三月一五日〜一六日にかけて、 カンウェイ村では、大人四二六人、こども二四九人が犠牲になった。そこから、すこし離 れたイロンロン村では、三月一八日の「粛清」で村のすべてが焼かれ、一四七四人が犠牲 になった(訪ねた蒙難華族同胞紀念碑に数がしるされていた)。この虐殺は、ネグリセン ビラン州での最大の虐殺であった。(この記述については、林博史『華僑虐殺−日本軍支 配下のマレー半島』すずさわ書店、を参照した。) その二つの村の碑の前で、被害をう けた住民の方々の話をうかがった。日本軍の銃剣による傷のあとをみせてくれた人、日本 軍の軍靴によって蹴られ踏みにじられて、足が変形してしまった人もいた。口々に、当時 の様を語ってくれた。僕はカメラをもっていったが、体に受けた傷痕のあまりのすさまじ さに、写真にとることができなかった。彼らは、いま、日本政府に対して、軍による被害 について補償せよと要求している。日本政府の公式見解は、補償はすでに政府あての賠償 によって終了しているというものだが、住民の声を聞くと彼らにはまったくといっていい ほど補償はなされていない。不十分な治療しか受けられず、もはや肉のかたまりのように なってしまった足をみて、なぜ日本政府は、公の費用で設備のととのった、たとえば日本 の病院でこの人たちの治療をおこなうようなことができないのか、と暗澹たる気持ちにさ せられた。
 シンガポールと海峡をへだてたジョホ−ルバールでは、かの七三一部隊によってつかわ れたという病院をみた。満州にいた七三一部隊がなぜと思って、帰国してから調べたら、 一九四二年に「南方防疫給水部(九四二〇部隊)」がシンガポールで編成されているので 、その病院なのだろう。この病院では、日本軍に接収される前の、一九四二年三月一二日 に病院長と医師の二人が、病院職員の目の前で殺害されている。その理由は、親英的であ ったこと、中国人の組織と関係をもっていたというものであった。病院玄関前のその殺害 現場には、墓がつくられていた。
 従軍慰安所の跡もみてきた。州の首相のもと官邸だったという洋風の立派な建物には、 今は大分いたんでいたが、ここは将校用の慰安所だったらしい。多くの慰安婦が現地で「 調達」された。
 シンガポールでは、中国系の人々に対する虐殺の跡を伝える「晩晴園」「血債の塔」「 セントーサ島の戦争博物館」を見学した。ブランド商品をもとめてシンガポールにやって くる多くの日本人はふりむきもしないが、シンガポールには、日本の侵略の暗い跡がいま なお残っている。 今回の旅行では、侵略の跡をたどるというテーマと同時に、多民族国 家における社会的な緊張と民族間の和解にむけたさまざまな試みも知った。「開発独裁国 家」での自由にたいする制約の現状もすこしうかがい知ることができた。この両国では徹 底した反共政策がとられている。現地のガイドさんに、中国共産党系の団体がつくった華 人慰霊碑はあるのか、と聞いたら、口をつぐんでしまった。共産党関係の話をすること自 体がタブーのようであった。市内の観光地のどこへ連れていかれても、日本人のおとす金 めあての買い物案内ばかりで、かえって逆効果をもつ「観光立国」政策ののいきすぎなど 、アジアのかかえる問題の一端を感じとることもできた。

     (日本科学者会議鹿児島支部ニュース九五年度四号、一九九六年二月一三日)